同和事業は行きすぎ、 逆差別ではないか、 こんな意見によく出会いました、そんな時? あなたならどうしましたか? 以下全解連津山市協議会(末永弘之委員長)が暗中模索と言われた1970年代後半の時期をすぎて、「部落問題の新たな潮流をめざして」20数年歩んだ経過を時代の流れに準じて解説していきます、説明の流れから、下に、下に、新しい時代の説明となります。 |
末永弘之を委員長とする全解連津山市協議会が、「そのとおりです、同和事業は やりすぎです」と方針を作り出すのには、それでも数年はかかりました。 やりすぎている事業はやめて、普通の社会、同和がない社会をつくる必要がある、特別の事業がある限り、特別になる、こんな方針を作り出したのは、昭和60年代の前半、「もう同和特別措置の延長はすべきではない」と決意をしました。 その道のりは決して平坦ではありませんでした、時には、組織の運命をかけた闘いでもありました・・・。 20数年前の私たちの姿、説明は・・・。 ☆同和対策審議会答申の精神を勉強してほしい、 ☆水平社以来の苦難の運動の歴史を学んでほしい、 ☆差別は今でも生きている、同和地区は差別されて゛環境が悪すぎた →こんな説明に明け暮れし、ある種の強要と押し付け説得でした。 第1回-本音で語る-同和問題シンポジウム開催が1981(昭和56)年7月13日でした このシンポジウムで部落タブーをなくす努力がはじまり、市民の率直な意見に耳を傾ける、こんな「部落解放運動」団体が津山で作られていきました。部落問題のあらたなる潮流と自らが自負し、自分たちがかわりました。 |
部落問題の新たなる潮流をめざして
暗中模索といわれた時代をとおりすぎて、本音シンポが、新しい潮流を私たちに教え導き、差別するな、から、差別されない地域づくりへ、差別されない人間にどうしたらなれるのか、ここを新たな運動の出発点とし、新しい挑戦が始まっていきました。 時には、津山の運動は「臨調行革の回し者」と陰口を叩かれましたが・・・。 |
津山の同和事業の特徴 @同和対策として「減免措置」(税金・国保・保育料などを安くする)は一切しませんでした。 A個人給付事業/お金をもらえる事業/は厳しい所得制限を加えました。所帯全体で県市民税1万円以内の所帯、地域改善財特法になって3万円としました。 B道路改良、捕縄整事業、保育所建設など可能な限り、周辺と一体推進しました。 C水道事業は、同和予算を津山市水道企業会計に約15億円合算、津山市全体で「水道料15年ほど値上げなし」で全市9割の普及率へ支援してきました。 D育苗センターは津山農協経営へ、苗を一箱約100円安くしました。 E地区子ども会や補修学習など「特別な子ども会」は組織せず、教育は学校現場でを基礎に地域で教師と保護者で「地域をかえる」学習をつみあげました。 F地区懇談会(同和教育で定例的に町内単位で学習会を強要する)は一回も開催無し、学校や企業では義務付けられる矛盾をもっていました。 |
本音シンポ開催から5年間程度は、この津山の同和事業の特徴を「強調」し、部落解放運動の歴史を解いて伏せ、 「地区だけが得をしているわけではない」 ことをしきりに強調して来ました。行政や教育委員会に対して「もっと市民に 津山の特徴を説明する同和教育を行え」 と申し入れなどを繰り返していました。 |
それでも市民は納得してくれませんでした、私たちも何かしっくりとしないままに月日が経過していきますが、第3段階ともいうべき方針が生まれてきます。それは、 |
市民要求実現と運動のあり方、力をあわせて要求を獲得してきた運動の成果も説明し市民の皆さんも力をあわせて一所に頑張ろうという意味の説明をし、署名活動や行政闘争を力説してきました。しかし、・・・・
1983(昭58)年→前年の1982年に津山市で住宅家賃の値上げ問題がおこりました。 (写真技術と右か左の余白に文字が打ち込める技術身につけまして、写真など入れ替え予定) ☆同和住宅も同じ率で値上げが提起され、同和住宅にすむ20歳代の若者に、同じ職場の市営住宅に住む若者から「家賃値上げ反対署名」の協力依頼が来ることが、私たちの考えをかえる大きな作用、きっかけとなりました。 ☆一般住宅家賃の一ヶ月と同和住宅家賃の一年間の家賃が、ほぼ同じという「家賃の開き」 が、同和住宅に住む若者のこころを開かせていきます、職場で同じ土俵で話が出来ていた→市営住宅に住んでいるという同じ生活環境であるという意味。 ☆こんなに家賃が違う、話が出来ない、家賃値上げ反対運動が盛り上がれば、盛り上がるだけ、話があわない、「隔離される」ことを実感として味わう、いわゆる「肩身の狭い、家賃値上げ反対運動」を体験して、重大な決意をします。 ☆当時の「美作解放会館」へ末永弘之を訪ねてきまして「家賃を同じにしてほしい、自分らの家賃を上げてもよい、おんなじように友達と話がしたい」の訴えでした。 この体験を、寸劇につくりあげ、飛騨高山で行われた「全解連青年集会」で上演、これが、津山市協議会が、いわば、演劇とか文化とかを創作するという第1作にもなりました。当時、30歳代後半の末永が脚本と監督を担当、今、事務所におる者でいえば、山本正市さんを筆頭に、亡くなった北畠、市民生協に勤める安藤卓也、などバス一台で飛騨高山へ勇んででかけ、意気揚々と演じてきました。 →多くの人が感動、これからはこの道でなくては、こんな考えが出ることをまっていた、等などの意見、そして、全国の新聞で紹介するからと記事への取材も行われました、が、がです、未だに、その記事と写真は、見たことがありません。 →ある全解連中央幹部は、この寸劇を見て「○○や△△の指導か」と山本正市さんに尋ね、正市さんが「無茶いうな、何一つ携わってはいない、○○や△△しか津山にはおらんと思っているのか」の抗議にも似た悲鳴をあげて立腹するというおまけまでついて、実際にあった物語です。 ここから、津山市協議会が、臨調行革のまわしもの、との一部の批判をうけても、 「同和事業はおかしい、もう特別の対策をスベキではない、法の延長も、公正・民主の改正もいらない」と主張しはじめます。 津山市協議会運動方針より→特別の対策のない社会、山の向こうに何があるか不安、損をするであろう、しかし、一度は通らなくてはならない道、荒海であれ、なんであれ、山を越えて、特別対策のない社会へ、降りなくてはならない。 |
☆1980年代中ころには、 津山市内の公共事業の探索もし始めました、特に、道路改良のあり方、捕場整備事業のあり方など一般対策と同和対策とどのように違うのか、また、個人施策、特に給付事業についての違いなどを調査しました。 ☆→津山の同和事業は違っていました。 全国での同和事業の実態も少しはわかってきました。同和対策として「税金や保育料」について津山市では「ヤッテナイ」ことでしたが、岡山県下ほどんどの自治体で、全国的には、ほぼ全地域で「同和地区だけ減額している」実態などを知らされました。??の連続が続いていきます。 →自分たちもシテモライタイの声もないわけではありませんでした。 |
たしかにやりすぎの感あり ☆個人施策のすごさ→ゆりかごから、墓場までを完全に実施の感あり、☆箱物建設や器具購入に(集会所と冠婚葬祭をふくめた道具・農機具導入に農機具保管庫・墓地移転事業・住宅)に個人負担一切なしなど☆圃場整備事業も個人負担なし、水道敷設も一戸一本立ち上がりまではすべて無料☆道路のつくりが違う、農道の舗装率が広さが違う、そして、団体補助金、各種学習講座への補助金、集会所利用に伴う講師謝金一年に国と県で250万円の現金が25戸以上の地区に下ろされる等など、当たり前とおもう同和施策が、実は、やりすぎ、一般対策と比較して、立派過ぎる。 ☆→この施策の違い、差別された代償論でよいのか、いつまでも続けてよいのか、差別するな、と自信と勇気をもっていけるのか、こんなやり方をする運動を若い者に引き継がせるのか、何をしている、この運動は何を目的に強いる、本当によいのか、何度も自問自答が続き、支部に出かけては嘆き、こたつを囲んで話をつづけ、家に帰って妻と話し合い、行ったりきたりしながら、しかられ、ほめられ、一所に悩み、やや、おだてられ・・・。 ☆到達したのが→、同和事業は逆差別になっています、と現状認識をすることでした。市民の目が変わりました。 その理由に言い訳や差別や運動の歴史や法律の制定や、まして、同和対策審議会の答申などの話は全く不必要、むしろ邪魔になる、やりすぎはやめなくてはならない、逆差別現象は、率直に認めなくてはならない、この方針でした。簡単な結論でしたが、ここに来るのに10年の特別措置法下の事業推進や「強引な当たり前論」や「言い訳の方針」を作り上げていました、 |
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