2008年11日の雑記帳から出発した画面作りです。
    一日、いろんな会議とあっちに行ったり、 こっちに来たりの日

人間裁判・朝日茂さんのコーナーです

2月11日は色々な活動びでした・こんな日もあるんだ
★こんな日も、たまにはあるんですね、2月11日一日の写真による報告です。
◎最近の寒さが「嘘」のような、穏やかで、暖かい日でした、朝いちは、しんぶん赤旗日刊紙の配達からでした。後は、下記の写真つきの案内です。
★午前10時から「子どもと教育を守る学習集会」
フリースペースあかねの徳方宏治さんの「学校に行けない子ども」の講演でした。
好い話なんですが、語尾が「どうも聞きとれない」はなし、とても疲れる講演でした。。。
★午後2時から、人間裁判・朝日茂さんの墓前祭、裁判継承のために『養子』となられた、朝日健二さんを迎えて、10数人が参加、46年目になるとかの話しでした。本行寺の住職によりありがたい御経もあげていただきました。
新発見の物語 ★朝日茂さんが、津山商業高校の時に、剣道部に所属、そして、歴代の「選手」の名札の一つとして、現在でも残されている・・・こんな話を高教組の参加者か聞かされて、さっそく、現場に案内してもらいました。。。健二さんも初めて聞く話であったようで、感動的な「名札」と面会しました。昭和九年卒業の年にありました。休みの日に、わざわざ部室の鍵を開けていただき本当にありがとうでした。
★午後3時30分から、―朝日茂「人間裁判」から学ぶこと―と題する、朝日健二さんの講演でした。一聞いても、とっても、優しいお話しです、夜は、健二さんを囲んでの「夕食懇談会」でした。
なぜ、朝日茂さんのコーナーをつくるのか、色々ありますが、おいおい、このコーナーへ書き込んでいきます。
★朝日茂さんを追っかけて見たい私の気持ちコーナーです。

朝日健二さんと津山と、「結核」とそして、津山の林病院と、患者会と末永泉の結核と、田外但さんという日本共産党員との出会いと朝日茂さんという日本共産党員と、縁があるんですね、、、それをおっかけてみたいの願望です。

ここから下は、私が「思いつくままに資料を引っ張り出し、そこに書かれていることを羅列する記載でしかありません。

直接関係ない資料である可能性がつよいものがありますが、おいおい、何かの形が生まれ出るかな、との、淡い期待です、、、

◎2008年2月21日(木)に記入です
★つやまのあゆみ、1986年7月5日発刊の「部落解放運動誌・全国部落解放運動連合会津山市協議会発刊」によりますと。
文化活動の歴史紹介コーナーの「同人雑誌・炎」などの欄で

★1954年(昭和29年)頃の出来事

日上支部(当時勝田郡河辺村)の末永泉・中山岩男、中山町子などを中心として津山市・勝田郡にかけての若い男女が参加して雑誌「炎」が発刊されていた。1954年頃、全部で20号ほど出された。榎(当時苫田郡田邑村)では「歌ごえ」運動がさかんで、錦織と交流会をもったこともある、一年〜二年程度続いた。

と紹介されている。
★人間裁判の「記録」をみる限り、朝日茂さんと深いかかわりがある「日本患者同盟東京都」では、「結核病にたいする対策の強化」を求めて、1954年7月27日に東京都に対して「大陳情団」を送り込み、3日間の座り込み闘争を行っている。
★朝日茂さんが、生活保護制度の「貧弱さ」を訴えて、津山市福祉事務所を通じて、岡山県知事に「不服申し立て」をはじめてしたのが、1956年(昭和31年)8月7日である。
★1956年(昭和31年)8月12日に厚生大臣の裁決の取り消しを求める訴訟、いわゆる「人間裁判」が始まっている。
そして、いわゆる第一審の判決が出され、朝日さんが「勝った」のが
1960年(昭和35)10月19日である。


何が、言いたいのか、調べたいのか、といいますと、雑誌「炎」の紹介にあるのが、昨年末になくなった、私の義父・泉なのである、そして、これを前後して、泉も「結核」をわずらって、津山市の林病院に入院、治療にあたった時期である。日本患者同盟に加盟し、日本共産党にも席を置いていたはずである。

今日(2月21日)は、ここまでの記載とします。これから、何がうまれるのやら、疑問多しです。


養父・泉は、谷崎潤一郎の「秘書・書生」をしていたが、1951年(昭和26年)に結核をわずらい、秘書をやめて、津山に帰郷し、闘病生活にはいっている、と、泉の著書「谷崎潤一郎先生覚え書」にかかれている。泉が帰郷した時は、私は、川元性で、我が家には、川元の母と兄と従兄の末永順平、そして、私が暮らしていたのです。泉は、母の弟、私には叔父にあたり、末永の跡取り息子でした。

★泉は、1951年(昭和26年)に帰郷し、林病院に数年入院、自宅に帰ったり、病院にいったりしながら、1957年か1958年(昭和33年)に再び上京している。
このことを考えると、朝日訴訟の「前半期」に泉は、患者同盟の一員として「田外坦さん」らの指導で活動していたと思われる。



★私は1943年(昭和18年)7月生まれですから、8歳、小学校2年か3年生の時に泉が帰ってきたことになります。岡山県勝田郡河辺村大字日上字人神144番地に生まれたのです。

★断片的に、泉の暮らしぶり、林病院の病室、雑誌「炎」を覚えているのです。こども心に、苅田アサノさん、合併反対闘争から税金闘争、部落解放委員会・・・・朝日茂さんの名前・田外但さん、と、かすかな記憶があるのです。時系列ではない覚えです、これから、自分史になりますが、この記憶を、実際の年月、私の年とともに調査していく予定、どこに行きつくのかです。。。。

◎ためしに、勝田郡河辺村が津山市に合併したのは1954年(昭和29年)7月です。渡しは小学校5年生だったか、岡山県勝田郡河辺・大崎村立国分寺中学校に入学するはずてあったが、津山市立国分寺中学校に変わったのを「変な気持ちで迎えた」という記憶がある・・・・長い名前の中学校が、いやに簡単な名前になったな・・・という「違和感」程度ですが・・・
★「合併反対」と「駐在所」と「税金闘争」と、そして、初めての市議選挙で、木炭車などの記憶も、頭の片隅に残されている、、、

★1954年(昭和29年)前後、朝日茂さんは、すでに闘病生活に入っており、国全体が「バターよりも大砲」の時代へ着々と準備していた。
生活保護への締め付けも強められ、岡山市で被保護者の生活費は、一ヶ月1,860円であった。副食費は一日に平均23円、一食が7円である。これは、ごま塩か梅干でも食べていけという措置である。

そして、入院生活をしている私たちに支払われるのは、一ヶ月600円であり、これに親兄弟から仕送りがあると、差し引かれるのである。

と、朝日茂の手記に書かれている。

★昭和30年の夏、大喀血をされている。そして、有名な「人間裁判の源」ともいえる、津山市の社会福祉事務所からの

『生活保護変更決定通知書』が送られてくるのです。

→あなたのお兄さんから、今後、月々1,500円送金されることになったから、今まで支給していた入院患者の生活扶助費(日用品費)月600円の支給は打ち切ります。入院患者の入院中の生活費は、厚生大臣が決めた月600円しか使えません。1.500円のうち、900円は患者の入院費の一部として国庫に納入して下さい。←


と書かれており、腹からの怒りを覚えたといわれています。
そして、上記で紹介していますが、1956年(昭和31年)8月7日に、津山市福祉事務所を通じて、岡山県知事に「不服申し立て」をはじめて行うのです。
田外坦さんの生涯「朝の海を航け」―軍隊と闘病と党生活と―

1979年に田外幸恵さんが編集された「日記・手紙・手記でつづる生涯」の記録集です
★昭和32年10月20日→炎12号できる。粟井、河本で炎もってくる。
★同年10月21日→日下里見・賢二二人連れでくる。小野忠重の版画に関する座談会を開く件で相談に来る。夜血痰がではじめた、末永、炎の話など
★昭和33年1月22日→粟井、炎合評会の報告
★同年2月1日→夜、末永・つるこ一しょに来る。炎の批評。創作の進み具合について。私の(田外)歌集の原稿整理についてぜひやりたいと言う。白十字の粉ミルク1キロもらう。
★同年5月3日→末永帰郷、小説は多分文学界に発表されるだろうという。初めの部分に手を入れているそうだ。
★5月31日付けで、田外さんから朝日茂さんへ、手紙の返事を書いている、その全文が「記録集」にはつづられています。



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